アーノルドは、1741年コネチカットのノリッジで父親ベネディクト・アーノルド3世と母親ハンナ・ウォーターマン・キングの6番目の子供として生まれた。彼の名前はロードアイランド植民地の知事を務めた曾祖父と、幼くして逝った兄の名前に因んでいる。彼と姉のハンナだけが成人し、他の兄弟は黄熱病で夭折した。母方の祖母は、少なくとも4人のアメリカ合衆国大統領(ユリシーズ・S・グラント、フランクリン・ルーズベルト、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ)の祖先にあたるジョン・ラスロップの子孫である。
アーノルド家は裕福だったが、父親が事業に失敗して負債を抱えてしまった。その頃から父親はアルコールに依存してしまった。彼は教育費を払うのにも困ってアーノルドが14歳のときに学校を辞めさせてしまった。 父親が酒浸りとなり健康を害したために、
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で鍛えることもできないため、アーノルドは母親のコネで彼女の従兄弟ダニエル・ラスロップとジョシュア・ラスロップの所に奉公に出された。2人はノーウィックで薬局などを営んでいた。
15歳の時、アーノルドはコネチカット民兵に志願し、フランスのカナダからの侵略(フレンチ・インディアン戦争)に対し、オルバニーとジョージ湖に進軍、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いに参加した。
ここでイギリス軍は、ルイ・ジョセフ子爵指揮下のフランス軍に屈辱的な大敗を喫した。イギリス軍の降伏に続いて、フランスの同盟インディアンはイギリス軍と植民地軍が提示した降伏条件を知って激怒した。イギリス軍は頭皮、武器などの戦利品を約束したが、何も実行されなかった。イギリス軍は捕虜となって護送中に180人以上が虐殺された。フランス正規軍はそれを止めることができなかった。このできごとは、若く多感であったアーノルドに
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に対する変わらぬ憎しみを植え付け、彼の後の人生に影響することになる。
1759年アーノルドが特に愛していた母が亡くなり、まだ若い彼が酒浸りの父と若い姉を扶養することになった。父のアルコール依存症は母の死後さらに悪化した。彼は白昼酔っぱらって何度か拘束までされており、教会への出入りも止められた。父は1761年に亡くなり、20歳のアーノルドは家名を昔のように上げる決心をした。
1762年、ラスロップの助けもあり、アーノルドはニューヘイブンで薬剤師と本屋として実績を上げ始めた。アーノルドには大望があり、積極的だったので、商売は急速に拡大した。1763年には、彼の父が負債の形に売り払っていた家産を取り戻した。さらに1年後、十分な利益を出してそれを売り払った。1764年、彼はニューヘイブンの若い商人アダム・バブコックと共同経営者になった。彼の家産を売った時に得た利益を元手に彼らは3隻の商船を買い、有利な西インド諸島貿易に乗り出した。この間、姉のハンナをニューヘブンに連れてきて、彼が留守でも薬局をやっていけるようにした。彼は自分の船を指揮してニューイングランドからケベック、西インド諸島まで商用で旅した。
1765年の印紙法は植民地での商売をひどく制限した。アーノルドは当初特に大衆運動に加わらなかった。多くの商人と同じで、印紙法など存在していないかのように商売を続け、実のところ法律を無視して密貿易業者のようになっていた。1767年1月31日の夜、アーノルドはイギリス議会の押しつける法律と植民地を抑圧する政策に抗議するデモに加わった。その地方に派遣されていたイギリスの事務官を象った人形が燃やされた。彼とその船の乗組員が密貿易を密告した疑いのある男にけがをさせた。アーノルドは平和を脅かした罪で逮捕され50シリングの科料を払わされた。政府によって課された抑圧的な税金のために、多くのニューイングランド商人が廃業に追い込まれた。アーノルド自身も個人破産に近い状態になり、15,000ポンドの借金を抱えた。
アーノルドはホンジュラスで彼のことを「ばかなヤンキー、恥も外聞も知らぬ奴め」と罵ったイギリスの船長と決闘した。アーノルドは彼の不躾さと決闘を挑まれたことにショックを受けた。その船長が傷つき、彼に謝らせられた。アーノルドは、1770年3月5日にボストン虐殺事件が起こったとき西インド諸島にいたが、後に「大変な衝撃だった」と書き、「神よ、大陸の人間はみんな眠らされて従順に自由を放棄したのか、あるいはあんな悪党達に仕返しもできない哲学者になってしまったのか」と嘆いた。
1767年2月22日、彼はサミュエル・マンスフィールドの娘マーガレットと結婚した。ベネディクト、リチャード、ヘンリーと3人の息子に恵まれたが、妻は1775年6月19日に亡くなった。
1775年3月、ニューヘイブンの市民が65名でコネチカット防衛第2中隊を結成した。アーノルドはその指揮官に選ばれ、戦争に備えて訓練・鍛錬をおこなった。レキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まったという知らせがニューヘイブンに届いたのは4月21日だった。イェール大学の学生からも防衛隊への志願者が現れて兵士を増やし、中隊は革命運動に加わるためにマサチューセッツに行軍を開始した。
途上でアーノルドはコネチカットの議員サミュエル・ホールデン・パーソンズ大佐に会った。二人の対話の中で、革命軍に大砲が不足していること、シャンプレーン湖のタイコンデロガ砦に多くの大砲があること、その砦を確保するために遠征隊を派遣すべきことなどを話し合った。パーソンズはハートフォードに向かい、エドワード・モット大尉に指揮を任せる軍隊結成のため、資金を調達した。モットは、バーモントのベニングトンで活動するイーサン・アレンとそのグリーン・マウンテン・ボーイズと連携を取るよう命令された。一方、アーノルドはマサチューセッツの安全委員会[1]を説得し、砦を奪取するための遠征資金を認めさせた。安全委員会はアーノルドをマサチューセッツ民兵の大佐に任命し、マサチューセッツで軍隊を組織すべく数人の大尉をアーノルドの下に付けて派遣した。大尉達が兵士を集める間に、アーノルドは北に向かってアレンと落ち合い作戦の指揮を執った。
5月始めに部隊は結成された。1775年5月10日、
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の攻撃で実際の戦闘を行うこともなくタイコンデロガ砦が落ちた。植民地の兵士はイギリス軍の守備兵の方が数が多かったことに驚かされた。続いてクラウンポイント、ジョージ砦を落とし、セントジョーンズ砦を襲撃した。しかし、イギリス軍がモントリオールから到着したとき、セントジョーンズ砦を放棄するしかなかった。この方面作戦を通じて、アーノルドとアレンは誰が全軍指揮を執るかについて議論が耐えなかった。アレンが自分の部隊を撤退させ、アーノルド一人が砦守備兵の指揮のために残った。しかし、コネチカットの兵士1,000名を連れたベンジャミン・ハイマン大佐が到着し、アーノルドを部下としてハイマンが指揮を執ることを伝えた。大陸会議によるこの
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はアーノルドを激怒させた。彼は革命のために行った彼の行動が認められていないと感じた。アーノルドはそこでの任務を辞退しマサチューセッツに戻った。[2]
1775年6月の
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、北部方面軍の指揮官フィリップ・スカイラー少将がカナダ侵攻作戦を提案した。この作戦はシャンプレーン湖の北端にあるセントジョーンズ砦からリシュリュー川を下りモントリオールに至るものであった。その目的はニューヨーク北部を攻撃できる重要な基地から王党派の部隊を追い払うことだった。リチャード・モントゴメリー将軍がその部隊の指揮官となった。
アーノルドは別働隊の提案をした。これはメーンのケネベック川を遡り、ショーディール川を下ってケベック市に至るというものであった。モントリオールとケベック市を手に入れれば、カナダのフランス語を話す開拓者達がイギリスに対する革命に加わってくれるものとアーノルドは信じていた。ジョージ・ワシントン将軍と大陸会議がこの案を承認し、アーノルドをケベック市攻撃隊の大陸軍大佐に任命した。
メーンに向けて発つ直前に、アーノルドは彼の妻マーガレットの死を知らされた。彼はニューヘイブンに立ち寄り、子供達の面倒を見てもらう手配をした。彼の姉ハンナが母親代わりを務めることになった。
9月19日1,100の部隊がマサチューセッツのニューベリー港を出港し、9月22日、メーンのガーディナーストンに到着した。そこではリューベン・コルバーン少佐に前もって200隻の平底船を造るよう手配していた。これらの船はケネベック川とデッド川を遡り、ショーディール川を下ってケベック市に至る軍隊を運ぶためのものだった。分水嶺を超えてショーディール川までは、アパラチアを越えて船を運んでいく長い道のりがあった。