■残額引受

イギリス軍はアーノルドの接近を察知しており、セントローレンス川の南岸にある水上乗り物(ボート、船、大砲船など)の大半を破壊していた。フリゲート艦リザード(搭載大砲数26門)とスループ船ハンター(搭載大砲数16門)が渡河を阻止するために常に哨戒していた。それにも拘わらず、アーノルドは十分な量の船を購入し11月11日にケベック市のある対岸に渡った。しかしそこで彼の部隊がケベックを占領するには不足していることに気付き、援軍を頼むためにモントゴメリーに伝令を発した。 一方、リチャード・モントゴメリー准将は9月16日に1,700名の兵士を連れてタイコンデロガ砦から北に発進した。彼は11月13日にモントリオールを占領した。モントゴメリーが12月早々にアーノルドの部隊と合流し、総勢で1,325名となった。彼らは12月31日、ケベック市を攻撃した。しかし、カナダの総督でイギリス軍の指揮官であったガイ・カールトンによって、大陸軍は惨敗を喫した。モントゴメリーは戦死しアーノルドは負傷した。多くの者が戦死または負傷し、何百もの者が捕虜となった。 残った者は350名ほどになり、アーノルドが指揮を執り、1776年の春まで無益な包囲を続けた。デイビッド・ウースター准将の援軍が到着し、指揮を交代したアーノルドは残った部隊とともにモントリオールに撤退した。[3] [4] アーノルドはカナダ侵攻作戦の後、准将に昇進し、イギリス軍がシャンプレーン湖を経由してハドソン川渓谷に侵攻してくることを阻止する任務を与えられた。1776年夏、アーノルドは湖を支配するために小さな戦闘艦と大砲船の船隊を造り上げた。イギリス軍はさらに大きな船隊を造り上げることで対抗した。10月のバルカー島の戦いでイギリス軍はアーノルドの船隊を打ち破った。しかしこの時はもう冬が始まっており、イギリス軍の侵攻が止まった。アーノルドの防衛戦略は成功したと言える。 この年アーノルドは、外為 で良く知られた王党派の娘、ベッチー・デブロアと知り合った。彼女は当時ボストン一の美人と言われた。しかし、アーノルドがエンゲージリングを送った後でもデブロアは彼の求婚を拒絶した。[1] 1776年遅く、アーノルドはジョセフ・スペンサー少将が指揮する大陸軍東部方面軍の副官になった。12月8日、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍の指揮する大部隊がロードアイランドのニューポートを占領した。アーノルドは一年以上も家族に会っていなかったので、ニューヘイブンで一週間を過ごし、1777年1月12日にプロビデンスに到着しロードアイランドの防衛隊の指揮を執った。ロードアイランドの大陸軍は、ワシントンのトレントン攻撃に外為 を割いており、約2,000名に減っていた。アーノルドは15,000名のイギリス軍を眼前に置き、防御に徹した。 1777年4月26日、アーノルドは大陸会議の会合に参加するためフィラデルフィアに向かう途中、再び家族に会うためにニューヘイブンに立ち寄った。そこへ伝令が来て、イギリス軍のニューヨーク軍事長官ウィリアム・タイロン少将が2,000名の部隊を連れてノーウォークに上陸したことを知らせた。タイロンはロングアイランド湾に沿ってフェアフィールドに進軍し、内陸に入って大陸軍の大きな物資倉庫のあるダンベリーを攻めた。どちらの町も火に包まれた。タイロンはノーウォークの港にも火を付け海から撤退した。 アーノルドは急遽地元の志願兵100名を集めた。彼は東コネチカット民兵500名を集めたゴールド・S・シリマン少将とデイビッド・ウースター少将の部隊に合流した。 アーノルド達はダンベリーの近くに移動し、イギリス軍の撤退を妨害しようとした。4月27日午前11時、ウースターの部隊がタイロンの後衛を捉え戦闘に入った。アーノルドはリッジフィールド郊外の農園に移動し、イギリス軍の撤退を止めようとした。それに続く小競り合いの間にウースターが戦死した。アーノルドも彼の馬が撃たれて倒れたときに足に傷を負った。 ダンベリーでの戦いの後、アーノルドはフィラデルフィアへの移動を再開し、5月16日に到着した。この時、スカイラー将軍もフィラデルフィアに居たが直ぐに本部のあるオールバニーに戻った。このことでフィラデルフィア地区ではアーノルドの位階が最上位となり、そこの指揮を執るものと思われた。しかし、大陸会議はペンシルバニアの新しく昇進したトマス・ミフリン少将の方を好んだ。アーノルドは以前にも昇進を見送られていた。このことでアーノルドの不満は募った。アーノルドは7月11日にそこでの任務を辞した。その直後、ワシントン将軍がアーノルドに北方方面軍の任務に就くよう要請してきた。このときタイコンデロガ砦がイギリス軍の手に落ちていた。このことはワシントンの指揮官としてのアーノルドに対する信頼を表しており、大陸会議もワシントンの要請を認めた。 1777年の夏は独立戦争の転換点となった。サラトガ方面作戦は、ニューヨーク北部のオールバニー近辺で戦われた一連の戦闘であり、サラトガの戦いでの大陸軍の勝利と、ジョン・バーゴイン率いるイギリス軍の10月17日の降伏で終わった。アーノルドはこれらの戦闘で大きな役割を演じた。 ベミス高地の戦いがサラトガ方面作戦の最後の戦闘であった。くりっく365 に劣り、補給物資が不足し、退路を断たれた(多くはアーノルドの功績)バーゴインは降伏するしかなかった。 ベミス高地の戦いで、アーノルドはケベックの時と同じ足(および臀部の下)を負傷した。結果論でいえることであるが、もしこの時彼が急所を撃たれて死んでいたら、英雄のまま記憶され裏切り者と呼ばれることはなかったであろう。 歴史家はサラトガ方面作戦の結果に対してアーノルドが演じた最も功績ある役割を否定しない。その勇気と独創性と軍事的な冴えをである。アーノルドはバーゴインがベミス高地での決戦から逃れようとする試みを独力で阻止したと言われる。しかし、アーノルドとホレイショ・ゲイツ将軍との間の感情的亀裂のために、アーノルドは信頼されなかった。アーノルドがサラトガの最終戦闘で勝利する一番の立役者であったとしても、ゲイツは彼の権限を越え命令を無視した者として彼を非難した。アーノルドは用心深く常套的なゲイツの戦術を軽侮していることを隠さなかった。 10月中旬、サラトガで受けた傷の治療のため、アーノルドはオールバニーの病院に入院した。彼の左足は利かなくなったが、その切断は許さなかった。悩ましい数ヶ月の後、左足は右足よりも2インチ(5 cm)短くなって残った。彼は1777年から1778年の冬にかけて、傷の快復を待ちながらバレーフォージで過ごした。 1778年6月、フィラデルフィアからイギリス軍が撤退し、ワシントンはアーノルドをその町の軍事指揮官に任命した。この頃、アーノルドはフランスとアメリカの同盟を知った。フレンチ・インディアン戦争 での苦い経験があったので、かれはこの同盟に強く反対した。皮肉にもフランス王ルイ14世をしてアメリカと同盟を結び戦争に協力することに同意させた契機は、アーノルドが決定的な役割を演じたサラトガの勝利だった。 この頃までにアーノルドは昇進を見送られ、ワラント の負債を認めてくれなかった大陸会議への不満がさらに強くなっていた。彼はカナダ侵攻作戦の時の費用の大半を自分で賄っていた。アーノルドはフィラデルフィアの社交界に身を投じ、大きなパーティを主催した結果、負債もふくらんでいた。アーノルドの浪費の結果が無理な財政計画となり、彼の財政状態を調べた大陸会議の信頼をさらに損なうことになった。しかもアーノルドはフィラデルフィア当局から汚職の嫌疑で告訴されていた(ある男の教唆でアーノルドはタイコンデロガ砦の指揮官を罷免していた)。 1779年6月1日、アーノルドは背任罪で軍法会議に掛けられた。「びっこになっても私は国のために尽くした。こんな感謝の心もない仕打ちを期待していただろうか」とアーノルドはワシントンにこぼしている。 1779年3月26日、アーノルドはペギー・シッペンと出会った。彼女はエドワード・シッペン判事の娘で陽気な18歳であった。4月8日、アーノルドとペギーは結婚した。ペギーはイギリス軍がフィラデルフィアを占領している間に、イギリス軍の少佐ジョン・アンドレから求婚されたことがあった。 1780年7月、アーノルドは志願してウェストポイント砦の指揮官となった。彼は既にジョン・アンドレ少佐を通じてイギリス軍ニューヨーク駐屯軍の司令官ヘンリー・クリントン将軍と連絡を取り始めていた。また王党派軍の著名な指揮官であるビバリー・ロビンソンとも親交を深めていた。1780年9月、アーノルドはイギリス軍にハドソン川の支配権を与え13植民地を分断してしまう計画を作った。アーノルドはイギリス軍に20,000ポンドとイギリス軍の部隊指揮を任されるという条件で、砦を明け渡すことを提案した。彼の計画は挫折した。アーノルドの署名のある通行証を持ったアンドレが捕捉され、しかも計画を明かす文書を持っており、それはアーノルドの罪を示すものだった。アンドレは兵士の死として銃殺を求めたが容れられず、スパイとして絞首刑に処せられた。 アーノルドはアンドレの逮捕を知ってイギリス軍に逃げた。 ジョン・ボーンズの支援もあって、ニューヨークのイギリス軍の撤退を助け、アーノルドはイギリス軍の准将の位を得た。イギリス軍は彼を准将に据えたが、計画が挫折したために報酬は6,000ポンドに減らされた。 アーノルドはアメリカ大陸の戦場で活躍したが、不動産投資 は心底からの信用はしていなかった。12月にクリントンの命令で、アーノルドは1,600名の部隊を率いてバージニアに遠征し、リッチモンドを占領、南部植民地への物資輸送経路を遮断した。アーノルドは捕虜として捕らえた士官に、大陸軍がアーノルドを捕らえたらどうするだろうと尋ねた。その士官は答えた、「あなたの右足を切り取って軍葬の礼で埋葬します、そして残りの体を絞首台に掛けます。」 南部戦線では、チャールズ・コーンウォリス将軍が1781年5月にヨークタウンに撤退した。一方、アーノルドはコネチカットのニューロンドン占領のために北に向かった。これがジョージ・ワシントンの目をコーンウォリスから離すことになるという作戦であった。アーノルドの部隊は9月8日にコネチカットのグリスウォード砦を占領した。12月、イギリス政府の政策転換により、アーノルドは他の士官達とともにイギリスに呼び戻された。