■ジェイリート

ベネディクト・アーノルドは、1801年ロンドンで後悔の念を抱きながら亡くなったと言われる。彼の評価は、独立戦争の英雄としての賞賛と裏切り者として非難が、その死後200年以上経った今でも続いている。 ニューヨーク州ビクトリーに立つ戦勝記念碑にはサラトガの戦いで活躍した4人の英雄を顕彰する台座があるが、その内の1つは空白のままである。ベネディクト・アーノルドの名前を入れるためだと言われる。 ジョン・アームストロング(John Armstrong, 1717年10月13日 - 1795年3月9日)はアメリカ合衆国の土木技師であり、アメリカ独立戦争では少将で従軍した軍人である。アームストロングはペンシルバニアから大陸会議の代議員に選出された。 アームストロングは、1717年10月13日にアイルランドのファーマナ州ブルックバラで、ジェイムズ・アームストロングとジェーン・キャンベル・アームストロング夫妻の子供として生まれた。アームストロングは有名なスコットランド国境の無法者、ジョニー・アームストロングの直系子孫であった。アームストロングはアイルランドで教育を受け、土木技師となり、ペンシルバニアに移住した。ペンシルバニアでの仕事は、植民地を所有するペン家の測量士であった。1750年、カーライルの町の設計を行ったのが最初の仕事であり、アームストロング自身もそこの最初の開拓者になった。さらに後に新しく作られたカンバーランド郡の測量士に指名された。 フレンチ・インディアン戦争の時、デラウェア族インディアンとフランス軍の連合軍が、1756年6月にペンシルバニアのグランビル砦(今日のルイスタウン近く)を襲って破壊し、キタニング・パスを通って、アレゲニー川沿いキタニングの防御が施された集落に多くの捕虜を連れ帰った。知事のジョン・ペンは、カンバーランド郡に駐在する植民地軍に対処するよう命じた。この時大佐であったアームストロングは、キタニング遠征隊を率い、敵地領内深くまで大胆な侵略を行って1756年9月8日にキタニングを破壊した。この行動でアームストロングは「キタニングの英雄」という終生続く呼称を貰った。 1758年、アームストロング大佐は2,700名のペンシルバニア植民地軍を率いてジョン・フォーブス遠征隊に参加し、その接近の報だけでフランス軍はデュケイン砦を放棄して破壊した。アームストロングはこの遠征隊にいた民兵指揮官ジョージ・ワシントン大佐と親しくなった。 アメリカ独立戦争の初期、アームストロングはペンシルバニア民兵隊の准将になった。1776年3月1日、大陸会議はアームストロングを大陸軍の准将に指名した。アームストロングは南部に派遣されてサウスカロライナのチャールストンの防衛準備を始めた。ここではアームストロングの土木に関する知識が生きて防御を固めることが出来、1776年6月のイギリス軍からの攻撃を凌ぐことが出来た。チャールズ・リー将軍がチャールストン駐在軍の指揮官として赴任したので、アームストロングはペンシルバニアの本隊と民兵隊の勤務に戻った。ペンシルバニア政府はアームストロングを民兵隊の少将に指名した。この時点で大陸軍への従軍は終わったが、戦争に対してまたワシントン将軍に対しての協力は続けた。 アームストロングは、1777年9月からのイギリス軍によるフィラデルフィア方面作戦に対抗する防衛軍の一翼を担い、ブランディワインの戦いやジャーマンタウンの戦いに参戦した。1777年9月11日のブランディワインの戦いでは、アームストロングの民兵隊がアメリカ軍の最左翼を守った。軍需物資を守る役目もあった。激しい戦いの後で、アメリカ軍は退却を強いられ、一部は降伏の危機に直面した。アームストロングは暗闇に紛れてパイルズフォードから物資や民兵共々退却に成功した。 10月2日のFX の戦いでは、アームストロングがアメリカ軍の右翼を率いた。アームストロング隊の役目は、イギリス軍の左翼側面を回り込んで攻撃し後方に回ることだった。他の隊の行軍遅れや障害があったにも拘わらず、全体の攻撃はうまく行き掛けたが、中央部隊がチューハウスという大きな石造りの邸宅に立てこもったイギリス軍に手を焼いて進軍が止まってしまった。その後、アダム・ステファンの部隊が霧の中でアンソニー・ウェインの部隊を誤って攻撃し撤退に追い込んでしまうという出来事があり、アメリカ軍が崩壊した。アームストロング隊はジャーマンタウンの中央部近くまで前進していたが、大きな戦闘には遭遇しなかったので、後にアームストロングは「十中八九は勝っていた戦闘だったが、不思議なことに負けてしまった。この期に及んで誰も退避の理由を説明できない」とこぼした。 ジャーマンタウンの後では、アームストロングは実戦の指揮を免除された。60歳になって健康も以前のようには行かず、古傷に悩まされた。資産運用 の自家に戻ったアームストロングはペンシルバニア議会により大陸会議の代表に選ばれた。代表を1777年から1780年まで務めたアームストロングはワシントンと大陸軍の強い支持者であり続けた。アームストロングは新しいアメリカ合衆国憲法も確固として支持し、大陸会議としての最後の会期である1787年と1788年の代表も務めた。 アームストロングはその人生を通じて多くの地元や市民のための職に仕えた。その一つがカーライルの教育委員会であり、ベンジャミン・ラッシュ博士が町で大学を開設しようと提案した時当初は反対した。後にアームストロングが折れて、ディッキンソン・カレッジの最初の理事会の一員となった。アームストロングはカーライルで1795年3月9日に死去し、オールド・カーライル墓地に埋葬された。1800年ペンシルバニア州はキタニングに新しい郡を起こし、日経225 郡と名づけた。アームストロングの息子、ジョン・アームストロング・ジュニアは、やはり軍隊と議会で功績を残した。 アメリカ合衆国建国の父(アメリカがっしゅうこくけんこくのちち、英:Founding Fathers of the United States、他にはFathers of Our Country、 Forefathers、Framers、Founders)は、アメリカ合衆国独立宣言またはアメリカ合衆国憲法に署名した政治的指導者、あるいは愛国者達の指導者としてアメリカ独立戦争に関わった者達である。 アメリカ合衆国憲法制定会議に出席した55人の代議員は18世紀アメリカ指導者の一断面を表していた。彼らのほとんどが教養があり、属する社会で指導的な地位にあり、国事について既に実績のあるものが多かった。実際上、すべての者が独立革命に関わった。少なくとも29人は大陸軍に従軍し、ほとんどが指揮官の職にあった。独立宣言と憲法に署名した者の経歴について以下のような調査記録がある。[2] 憲法の署名者は幅広く政治活動を行った経験がある。1787年までに、4分の3の41人が大陸会議のメンバーであった。実際に、55人全員がそれぞれの植民地議会で経験があり、大多数は地方行政単位の長を務めていた。[3] 1787年の代議員は幅広く、上中級と見なされる投資信託 に就き、多くは複数の仕事を同時にこなしていた。代議員の職業は王党派の場合と極端な違いはなかったが、その職業においては若い方であった。[4]35人が弁護士であり法律に関する知識を活かせたが、すべての者がその職業を生活の糧にしているわけではなかった。判事出身の者もいた。[5] 1787年代議員の何人かは裕福であった。(植民地で最も裕福な者の多くは王党派であり、イギリスに帰った。)他の者の多くはかなりあるいはそそこの財政基盤があった。富の面では、概して王党派よりも見劣りしていた。[6] ジョージ・ワシントンとロバート・モリスは最も裕福な人に位置づけられていた。 4人がかなりの資産家であった。 7人はあまり良い財政状態ではなかったが、なんとか遣り繰りはできていた。 かなりの数の者が土地の指導的立場の外国為替証拠金取引 の生まれだった。 何人かは貧しい暮らしから立ち上がって来た者だった。 1787年代議員のほとんどが13植民地の生まれだった。 4人がアイルランド出身、2人がイングランド出身、スコットランドおよび西インド諸島出身が各1人だった。 多くの者が複数の植民地を跨る転居の経験があった。 海外で留学または旅行の経験がある者がいた。 建国の父達には強い教養の裏づけがあった。[7]フランクリンのようにほとんどが独学で、あるいは奉公の間に学んだ者もいた。家庭教師について学んだ者もいれば、専門学校で学んだ者もいた。約半数は植民地またはイギリスの大学を出ていた。医学の学位を持つ者、神学の修行をした者もいた。数人の弁護士はロンドンの法律学校で勉強してきていたが、多くはアメリカの弁護士に付いて修行していた。 1787年代議員の寿命は当時の平均的なものであった。[8]平均寿命は67歳であった。 代議員の多くが結婚し、子供を育てた。ロジャー・シャーマンが最大の家族で、2人の妻により15人の子供をもうけた。 少なくとも9人は複数の結婚履歴があった。 4人は終生独身であった。 1787年代議員の何人かは無宗教であった。ローマ・カソリックの3人を除いて他はプロテスタントであった。プロテスタントの中で28人は監督教会員、8人は長老派教会員、7人は組合教会主義者、2人はルター派教会員、2人はメソジスト教徒であった。著名な建国の父の多く、たとえばジェファーソンが既存の宗教に対する反発や教権反対主義を主張していた。その講演や文書の中で既存の教会組織に反対する論旨を展開する者がいた。ジェファーソンは自分の聖書を書いた。しかし、パトリック・ヘンリーのように伝統的な宗教の強い擁護者もいた。自然神教あるいはそれに近い形で信条を表す者もいた。 建国の父達の多様な信仰形態にも拘わらず、ほとんどが宗教を好意的に見ていた。このことは、彼らの講演や文書からも見て取れる。たとえば、国民の倫理性を形作るとき、法の遵守を確保するとき(ワシントン)、人の邪悪さを調べるとき(ベンジャミン・フランクリン)、アメリカのような自由な政府を保護するとき(ジョン・アダムズ)の宗教の役割である。教会や国事の分裂は建国の父達によって常に強調されるものだった。「アメリカ合衆国議会はいかなる意味でもキリスト教に基づくものではない」という文が1707年のトリポリ条約にある。この文書は議会でさして議論もされずに批准され、建国の父達の意図を思い起こさせるものになっている。[9] 宗教ではないが、かなりの数の者がフリーメイソンであった。 1787年代議員のその後の経歴は、その能力とともに運命の浮き沈みを反映した。[10]たいていは成功したが、7人だけは財政的に苦しみ破産かそれに近い状態になった。2人は背信行為に巻き込まれた。しかし多くは、会議前にもなしていたように公共的な仕事に就き、特に彼らが作った新政府に貢献した。 ワシントン、ジョン・アダムズ、ジェファーソン、マディソンはアメリカ合衆国大統領になり、他に3人が候補となった。 独立宣言の署名者のうち、ハンコック、リチャード・ヘンリー・リーおよびハンティントンは大陸会議議長になった。 連合規約署名者のうち、ハンソンとマッキーンは連合会議議長になった。 憲法署名者のうち、ゴーラムとミフリンは連合会議議長になった。 ジョン・アダムズはワシントンの、エルブリッジ・ゲリーはマディソンのアメリカ合衆国副大統領となった。 ハミルトンなど4人は閣僚となった。 19人はアメリカ合衆国上院議員となり、13人がアメリカ合衆国下院議員となった。この中でデイトンは下院議長も務めた。 4人は連邦裁判所判事となり、合衆国最高裁判所陪席判事も別に4人いた。この中で2人は最高裁判所長官となった。 7人は外交官となった。 1787年代議員の多くが州の役職に就いた。12人の知事とその他の代議員である。ほとんどの者が市、地域社会、州の文化的生活に多くの方法で貢献した。彼らの子供や子孫がアメリカの政界や知的な世界で高位を占めたことは驚くに値しない。