自由の息子達(Sons of Liberty)とは、アメリカ独立戦争以前における北米13植民地の愛国急進派の通称であり、やがてこの名を冠した市民組織が各地で結成され、独立革命に一定の役割を果たした。特にサミュエル・アダムズが中心となったボストンの組織は、ボストン茶会事件で有名である。
英当局や忠誠派の立場からすれば彼らは反乱軍であり、「暴力の息子達」とか「邪悪な息子達」などと呼んだ。
1765年2月、本国の議会で開かれた印紙法に関する討議のなかで、初めてこの「自由の息子達」という言葉が使われた。印紙法を推進するチャールズ・タウンゼントが、「我らが世話をして入植した子供達は、我らの寛容さに増長している。それでいて我らの武力で守られているのだ」と演説したのに対し、植民者側の議員アイザック・バーレは植民地人は「自由の息子達」であると切り返し、植民地人の新法(印紙法)への抵抗を予告した。同年秋には自由の息子達は印紙法反対派を指していう呼称となった。
一部の小説では、自由の息子達は上命下服の地下組織であるように描かれることがあり、これが自由の息子達についての一般的なイメージであるが、実際には高度に組織化された集団ではなく、急進的な植民地人を包括的に指した呼び名として考えたほうがよい。全米の愛国者たちはこの語によってアイデンティティを共有したし、指導者たちはこの語を用いて「自由の樹」や他の場所へ匿名の招集をかけ、しばしば過激行動を引き起こした。これが過激派組織としての自由の息子達の実際である。
自由の息子達を自称する集団はほぼ全ての植民地に現れる。独立が開始された後に月を追うごとに拡大していった。1765年8月にはボストンの組織が結成された。サミュエル・アダムズが創立者であったが、ロイヤル・ナインという前身の組織があり、ボストンの自由の息子達が当初からアダムズら急進派の実力組織として設立されたものだとは断言できない。11月6日にはニューヨークで他の植民地との通信を目的とする委員会が設置され、12月にはニューヨークとコネチカット間で同盟が結成された。翌年1月にはボストンとマンハッタンの組織間の通信連絡制度が設置された。3月にはプロビデンスでニューヨーク、ニューハンプシャー、ニューポート、ロードアイランドとの連絡網が設けられた。このときまでに自由の息子達はニュージャージー、メリーランド、ノーフォーク、ヴァージニアにも設立され、またノースカロライナの地方集団はサウスカロライナとジョージアから関心を呼んでいた。
サヴァンナ地帯からカナダ南東部のハリファックスまで広がる北米植民地は1765年の印紙法に抵抗し、法的決議・示威運動・脅迫や暴行事件にまで発展した。この大衆運動によって印紙法を廃止に追い込んだことは、植民地の急進派を勇み立たせ、続く他の類似の新税に抵抗が続くこととなった。1768年にはタウンゼント諸法に対し、自由の息子たちはボイコットによるイギリス製品の締め出しを主導した。
1766年、ニューヨーク州の自由の息子達はニューヨーク市に「自由の旗竿」を立て、印紙法の廃案を祝福した。自由の旗竿をめぐっては在地の英軍と長く小競り合いが続いた。愛国者によって旗竿が立っては英軍に破壊され、紛争は1766年から断続的に1775年春に愛国者がニューヨーク政府の実権を奪うまで続いた。最後の自由の旗竿が英軍に切り倒されたのは1776年10月28日のことである。
1772年のガスピー号焼き討ち事件を引き起こしたのも自由の息子達である。
1773年12月、自由の息子達はニューヨーク市で宣言書を配布し、「ニューヨークの自由の息子達の会 (The Association of the Sons of Liberty of New York) 」の設立を宣言した。彼らは茶法へ反対し、同法の実行を幇助する者は皆「アメリカの自由に対する反逆者」であるとした上で、「この決意に背く者とは我らは取引も雇用もしないし、いかなる関係も持たない」と述べた。自由の息子達はボストン茶会事件で、ただちに直接行動によって茶法への反対を示した。原住民に扮装したメンバーが東インド会社の輸送船を襲撃し、大量の茶をボストン湾に投棄した事件である。
1763年2月、フレンチ・インディアン戦争が終結すると、
FX 初心者
国王ジョージ3世とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税と支配を強化した。この本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす(詳細は、アメリカ合衆国の歴史の項目と、アメリカ独立戦争の項目を参照)。
それぞれに独自の発展を進めていた13植民地は、1772年11月、連絡組織として通信連絡委員会を発足させる。この委員会は、1774年9月、第1回大陸会議(ジョージア植民地を除く12の植民地代表の集会)に発展し、本国政府との和解策を練った。1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いで、イギリス軍と植民地民兵隊の間に銃火が交えられ、独立戦争の火蓋が切られた。翌5月、第2回大陸会議が開かれ(全13植民地代表がそろう)、ここ武力衝突に至っても本国政府との和解の道を探っていた。しかし、情勢は日増しに悪化し、翌1776年1月、独立論を訴えるトマス・ペインの著書『コモン・センス』が刊行されてベストセラーになると、住民の間でも植民地代表者の間でも、独立論は最高潮に達した。
同年6月7日、バージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーは大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。この委員会は、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・R・リビングストンの5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。そして、1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7月4日に採択された。
独立宣言は、基本的人権と革命権に関する前文、
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の暴政と本国議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。
中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱い、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。
この理論は、名誉革命(1688年から1689年)を理論的に正当化したジョン・ロックの自然法理論の流れを汲む。
宣言公布当時、日本は江戸時代の鎖国中であったため、直接の影響は見られない。
江戸時代末期から明治時代にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち、福澤諭吉はその著書『西洋事情』で、「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」としてアメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。
アメリカ独立戦争の海軍作戦行動(アメリカどくりつせんそうのかいぐんさくせんこうどう、英: The naval operations of the American Revolutionary War)はアメリカ独立戦争の開始から、1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められるまでの
先物取引
に行われたアメリカ、イギリス、フランス等の海軍の作戦行動。2つの期間に分けられる。
1つ目の期間は、開戦の1775年から1778年の夏までであり、イギリス海軍が大陸軍に対抗するイギリス陸軍と呼応して北アメリカの海岸、川、湖で活動した。更にイギリスの商船をアメリカの海賊行為(私掠船)から守ることも任務の一つだった。
2つ目の期間は、フランス、
先物取引
およびオランダの相次ぐ参戦により、西インド諸島やベンガル湾にまで及ぶ海戦に拡大したものであり、1778年夏から1783年中程までの期間である。アメリカ大陸で進行中の作戦や通商保護が目的のものもあったが、大きなスケールでの海軍力同士のぶつかり合いもあった。
フランスが1778年に参戦するまでは、海戦は小規模のものに限られていた。アメリカ独立戦争が始まった時、イギリスは戦列艦を131隻持っていたが、海軍が七年戦争時代の急ごしらえで質の落ちる艦を放置していたため、戦争開始時点で直ちに戦闘に使える戦列艦は39隻に過ぎなかったとされている。海軍大臣サンドウィッチ卿は艦船の更新計画を持っていたが、まだ実現していなかった。各泊地に派遣された提督たちは長い海岸線をパトロールするだけの力が無かった。よってアメリカ独立戦争の最初の3年間は、主に陸軍の作戦の支援に回り、ボストン包囲戦ではトマス・ゲイジ将軍やウィリアム・ハウ将軍を助けて軍事物資や部隊の補給を行った。