海岸の他の地点では、メイン州ファルマス(現在のポートランド)の1775年10月の焼き打ちなどのように、沿岸の町への懲罰的な攻撃にイギリス海軍が使われたが、それは敵を弱らせるのでなく怒らせるだけであった。また1776年6月に行われたサウスカロライナ州のチャールストンへの攻撃は不首尾に終わった。私掠船が出撃する町を海上封鎖するという任務は目的を達せられなかった。故にイギリスの通商はアイルランド沿岸のような遠くの地においてすら深刻な脅威を受け、ベルファストの麻布貿易であっても海軍による護送が必要だった。
大陸軍には1隻の戦列艦も無く、私掠船によってイギリスの通商を妨害するしかなかった。1776年3月23日、独立宣言の数ヶ月前、大陸会議は拿捕免許状を発行した。アメリカの私掠船は戦争中に600隻のイギリス船を拿捕した。これらの私掠船は必ずしもアメリカのために働いたわけではなく、高く買ってくれるものに鹵獲品を売ったため、イギリス人が自らの奪われた荷を買い戻すということもあった。
大陸会議は1775年10月13日に
資産運用
の創設を承認した。とはいえ戦列艦を作ったわけではなく、小さな船を作って主に通商破壊を行わせたのである。1775年12月22日、エセク・ホプキンスが海軍総司令官に任命された。ホプキンスは小艦隊を率いて、1776年3月早くに、大陸海軍初となる作戦行動を行った(ナッソーの戦い)。バハマのナッソーでは、大陸軍が大いに必要とする火薬を貯蔵していた。4月6日、戦隊は20門搭載のイギリス軍艦グラスゴーと遭遇し、初めての海戦となったが、これは負け戦だった。1778年4月24日、ジョン・ポール・ジョーンズ船長はイギリス軍艦ドレークを拿捕してアメリカ海軍最初の英雄になった。これはイギリスの支配海域におけるアメリカ軍艦初めての勝利である。彼はまた1779年9月23日、軍艦ボンノム・リチャードを指揮してイギリス軍艦セラピスを拿捕した。
1778年にはジョン・ポール・ジョーンズ率いるアメリカ海軍がイギリス本国カンブリア州のホワイトヘブン港を襲った。この奇襲上陸はジョーンズの報復のためであって、占領を目的としたものではなかったが、イギリス本国に恐慌をもたらした。これがフランスやスペインのような国によって模倣されうるという弱点を明らかにしたからである。その結果、しばらくは本国の港の防御を高めることに熱心になった。
大陸では1776年4月のイギリス軍のボストン撤退をイギリス海軍が助け、陸軍をハリファックスまで撤退させた後、6月にはニューヨークに運んだ。1777年7月のフィラデルフィア方面作戦でも陸軍を運んでいる。セントローレンス川と五大湖地方では、更に攻撃的な役割も果たした。1776年5月のチャールズ・ダグラス海尉によるケベック解放では大陸軍のベネディクト・アーノルド将軍を撤退に追いやっている。10月、シャンプレーン湖でのバルカー島の戦いでは、カナダ戦線を確保し、1777年のジョン・バーゴイン将軍による遠征の基地となっている。不幸にしてバーゴインはサラトガで降伏した。
アメリカ独立戦争におけるフランスも参照。
ベンジャミン・フランクリンはフランスが参戦する前に1年以上フランスに滞在していた。サラトガの降伏に続いて1778年フランスが参戦した。フランスはそれ以前からアメリカの私掠船や海軍には密かに援助を行っていた。英仏関係が危機に瀕した3月、イギリスの大使ストーモント卿がパリから呼び戻されたが、どの艦隊も準備ができておらず、実際に戦闘が起こったのは7月だった。 フランス政府はイギリスよりはいくぶん準備ができていた。4月13日、デスタン伯爵の
個人向け国債
で12隻の戦列艦と4隻のフリゲートがトゥーロン港からアメリカに向けて出港した。ジブラルタル海峡を何の抵抗もなく5月16日に通過したが、乗組員の未熟さと、捕獲賞金獲得のために時間を費やすという彼自身のミスのために遅れを生じ、デラウェア川の河口に着いたのは7月8日だった。
フランス政府には3つの目論見があった。大陸軍を援助すること、西インド諸島からイギリス軍を排除すること、そしてイギリス海軍の主力をイギリス海峡に引きつけること、である。そのために、第2のより強力な艦隊がドルヴィリュー伯爵ルイ・ジローの指揮下ブレスト港で出港準備を始めた。
イギリス政府はジブラルタル海峡の支配は当面無視することとし、7月9日にジョン・バイロン提督を13隻の戦列艦とともにプリマスから出港させた。アメリカではウィリアム・ハウ将軍の兄リチャード・ハウ提督が待ち受けていた。イギリス海軍はオーガスタス・ケッペル指揮下の西部戦隊と呼ばれる強力部隊を本国に集めた。 ケッペルは6月から予備的な巡航を開始し、7月27日、ついにブレスト沖でドルヴィリュー伯の戦隊と海戦に及んだ(ウェサン島の海戦)。戦力はほぼ等しかったが行動は徹底を欠き、互いに砲火を交わしながら航過しただけに終わった。これについてイギリス軍首脳の間に政治的な意見の相違から激しい議論が持ち上がり、ケッペルと部下の戦隊指揮官の2件の軍法会議が開かれた。結果は双方とも無罪となったがその後ケッペルは司令官を辞任した。これは海軍の統率には大きな痛手であった。ヨーロッパ海域ではこれ以上の特記すべき事件はなかった。
デスタン艦隊の接近の知らせは、アメリカの海岸部において、イギリス軍の指揮官が1778年6月18日にフィラデルフィアを放棄する動きにつながった。リチャード・ハウは9隻の小型戦列艦からなる彼の部隊を集結させ、6月29日にニュージャージーのサンディフックを出港し、7月11日にデスタンの動きを掴んだ。フランス提督は敢えて海戦を挑もうとはせず、7月22日には大陸軍と協力してロードアイランドのイギリス軍を排除する方向に動いた。ハウは僅かな増援を受けた後にフランス戦隊を追おうとした。フランス提督はロードアイランドのニューポートに停泊しており、ハウの戦隊に向かおうとしたが嵐のために遭遇は叶わなかった。デスタンは8月21日にボストンに向かった。
ハウは結局バイロンの
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を受けられなかった。装備の十分でなかったバイロン艦隊は7月3日の暴風で中部大西洋に散り散りになっていたためである。彼の艦隊は9月にようやく目的地に着いた。ハウは7月25日に辞任し、バイロンと交替した。
冬が近づいて、北アメリカ沿岸での作戦行動は危険になった。西インド諸島では6月から10月にかけてがハリケーンの季節であるが、北部の海岸では逆に10月から6月までが嵐の多い冬を含む危険な季節である。このことが戦争における海軍の作戦行動に大きく影響していた。
1778年11月4日、デスタンは西インド諸島に向かった。ハリファックスやニューファンドランド島での協力を期待していた大陸軍にとっては思いがけないことであった。同じ日に、イギリス軍のウィリアム・ホータム代将が西インド諸島の艦隊増援のためにニューヨークを出帆した。9月7日にはフランスのマルティニーク島総督ブーイェ侯爵がイギリス領のドミニカ島を占領していた。リーワード諸島にいたイギリス軍のサミュエル・バリントン提督がホータムの増援を得て12月13日から14日にセントルシア島を占領することにより報復した。デスタンはホータムを追撃したが、12月15日にセントルシア島付近の隘路でバリントンと2度にわたる小戦闘を行い、結局退けられた。
1779年1月6日、イギリス海軍のバイロン提督が西インド諸島に到着した。この年の前半はお互いに警戒しあっていたが、6月にバイロンが商船隊の帰国を護衛するためにアンティグアに向かった隙に、デスタンはまずセントビンセント島を、続いてグレナダ島を占領した。戻っていたバイロンは救援に駆け付けたが間に合わなかった。7月6日にグレナダ島沖で海戦(グレナダ島の海戦)があったが決定的な結果とはならなかった。西インド諸島での戦いは一旦終息し、バイロンは8月に帰国した。デスタンは9月にジョージアのサバンナで大陸軍と協働したものの不首尾に終わり、やはり帰国した。
ヨーロッパの海域では、スペインの参戦でイギリス海峡が66隻の戦列艦を擁するフランス・スペイン連合艦隊の侵入を受けていた。イギリスはそれに対してサー・チャールズ・ハーディのもとに35隻の戦列艦しか集められなかった。しかし、連合軍の到着は遅く、そして何もしなかった。彼らは9月早くには撤退し、イギリス商船団を妨害することすらできなかった。その間、スペイン軍はジブラルタルの包囲を固めていた。
それまでイギリス海軍は防衛に徹しており、
株
を除いて具体的な損失はなかったが、勝利もなかった。1780年の戦況もおおむね同様に推移していた。イギリス政府はブレスト港やスペインの港を封鎖できるだけの力が無いと感じていたので、行動は限定的なものにとどまっていた。イギリス海峡では、フランス・スペイン連合艦隊の作戦の拙劣さによって惨事を免れた。数的には優位にあったこの連合艦隊の唯一の戦果は、東インドや西インドに軍隊を運ぶ大きな輸送船団を捕獲したことだけであった。
しかしアメリカ沿岸や西インド諸島では状況はより活発に動いていた。1779年早く、マリオット・アーバスノット提督が北アメリカの指揮官として赴任した。フランス側はド・グッシェン伯爵が西インド諸島の支援に赴き前年デスタンが残した艦隊を引き継いだ。彼は3月に到着すると、セントルシア島のグロスアイレット湾にハイド・パーカー指揮下のイギリス戦隊を封じ込めた。
スペイン参戦後の1779年、イギリスのジャマイカ総督であり総司令官だったジョン・ドーリング少将は、スペイン領ニカラグアへの侵攻を計画した。最終目的はサン・ファン川を船でニカラグア湖まで遡って、グラナダの町を占領することだった。それはアメリカにおけるスペイン植民地を効果的に分断するとともに、太平洋へのアクセスの潜在的な可能性をもたらすものだった。ネルソンの海軍部隊に支援されたこの侵攻は、一旦スペインのサン・ファン砦を占領するなどの戦果をあげたが、病気の蔓延と兵站の困難さのため、最終的には失敗し、占領軍は撤退した。
1780年5月、フランスのブレスト港からダルザック・ド・テルネーが7隻の戦列艦と6,000人のフランス兵を載せた船団を率いて大陸軍への協力のため出港した。彼は6月20日にバミューダ島近くでイギリスのコーンウォリスの部隊と小競り合いを演じ、7月11日にロードアイランドに到着した。
この年の残りと翌年の初めは、イギリス海軍はニューヨーク、フランス海軍はニューポートに本拠を置いてお互いに相手の出方を見ていた。そしてその年も西インド諸島が重要な作戦行動の舞台となった。2月と3月に、ベルナルド・デ・ガルベス指揮下のスペイン艦隊がニューオーリンズから西フロリダを侵略し成功を収めた。1782年にはガルベスの部隊がバハマのニュープロヴィデンスにあったイギリス海軍基地を占領した。
サン・ビセンテ岬の月光の海戦、1780年1月16日、by Francis Holman, painted 1780? 1779年の末に、イギリスのサー・ジョージ・ロドニーに大きな海軍戦力が委ねられ、ジブラルタルの救援とメノルカ島への補給の任が課せられた。ロドニーは戦隊の一部とともに
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に向かうことも任務だった。12月29日、西インド諸島に向かう商船隊を保護下に置き、1780年1月7日、フィニステレ岬沖でスペインの商船隊を捕獲、1月16日、サン・ビセンテ岬沖で小規模なスペイン戦隊を破った(サン・ビセンテ岬の月光の海戦)。1月19日にはジブラルタルを救援し、2月13日西インド諸島に向かった。
3月27日、彼はセントルシアでハイド・パーカー卿と合流した。フランスのグッシェンはマルティニーク島のフォール・ロワイヤルに撤退した。7月までロドニーとグッシェンの部隊は力が均衡しており、マルティニーク島近くでの行動を続けた。イギリスの提督は接近戦を挑もうとしていたが4月17日の最初の遭遇戦(マルティニーク島の海戦)では、ロドニーの命令を艦長達が取り違え、決着が付かなかった。彼は敵の戦列の後部に自部隊を集中させようとしたが、彼の部下の艦長達はフランス艦隊の戦列に添って散開してしまい、攻撃の集中を欠いてしまったのである。5月15日と19日も接近があったが、フランスの提督が交戦を求めなかった。
スペインの戦列艦12隻からなる艦隊が6月に到着し、連合軍が数的優位に立ったので、ロドニーはセントルシア島のグロスアイレット湾に撤退した。しかし決定的なことは何も起こらなかった。スペイン艦隊は準備ができておらず、フランス艦隊は休養を必要としていたからである。スペイン艦隊はハバナに行き、フランス艦隊はサン・ドマングに向かった。7月、ハリケーンシーズンの到来により、ロドニーは9月14日ニューヨークに移動した。グッシェンは疲れ果てた艦隊を引きつれて帰国した。12月6日、ロドニーは北アメリカでは何も出来なかったので、バルバドスに戻ったが、バルバドスに残した艦隊は10月に起こった「1780年のグレートハリケーン」で壊滅的な打撃を受けていた。