■指値注文

ある邦の議会で保守派あるいは改革派のどちらが政権を取るかということは、力の無い側が温和しく結果を認めるということを意味するのではなかった。ペンシルバニア憲法の改革的条項はわずか14年間しか続かなかった。1790年、保守派が議会を制すると、新たに憲法制定会議を要求し、憲法を書き換えた。新しい憲法では白人男性の普通選挙を制限し、知事には拒否権を与え、任命権も与えた。また上院を追加して一院制議会の議員よりも被選挙権の資産条件を厳しくした。トマス・ペインはこの憲法をアメリカには相応しくないものと言った[22]。 トマス・ペインのコモン・センス詳細はアメリカ独立宣言を参照 1776年1月10日、トマス・ペインは「FX 」という題の政治冊子を発行し、イギリスとの問題を解決する唯一の手段は共和制であり、イギリスからの独立であると訴えた[23]。 7月2日、第二次大陸会議においてアメリカ独立宣言が批准された。戦争は既に1775年4月に始まっており、独立宣言が1年以上後の1776年7月であった。この時点まで植民地は和平の道を模索したが、全ての邦が独立を選んだ[24]。 第二次大陸会議は1777年11月に連合規約を採択した。これはアメリカでも最初の政府に関する規定であり、主権国家としての邦々の緩い連合という形を採った。連合規約の各邦による批准のために、さらに3年間以上が費やされた[25]。 イギリス軍は1776年8月に反撃に出て、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで、巣立ちして間もない大陸軍を打ち破った。結果的にニューヨーク市を占領し、ワシントン将軍を捕まえる寸前までいった。イギリス軍はニューヨーク市を政治の中心とし軍事基地として1783年まで保持し続けた。続いてニュージャージーまで侵攻したが、ワシントンはデラウェア川を渡っての急襲で、トレントンの戦いとプリンストンの戦いにおいてイギリス軍を破り、革命軍の息を吹き返させ、ニュージャージーも奪い返した。1777年、イギリス軍は2つの連携が取れていない遠征隊を発進させた。ニューヨーク市に本拠を置く軍隊はワシントンを破り、フィラデルフィアを陥れた。同時に侵攻したカナダに本拠を置く軍隊はニューイングランドを切り取ることを目指したが、進退に誤り、1777年10月にサラトガで降伏した。この勝利に気を強くしたフランスは、ベンジャミン・フランクリンが軍事同盟を画策していたことが功を奏し、1778年早くに公式にアメリカ側に付いて参戦した。後にスペインとオランダもフランスと同盟を結び、イギリスは大きな同盟国も無いままに単独で戦争を行うことになった。ヨーロッパでは武装中立同盟が成立し、イギリスの貿易は海上封鎖などで危機に瀕した。アメリカの戦線はイギリスにとって数ある戦線の一つに過ぎなくなった[26]。 イギリスは敵国の同盟で相対的に低下した軍事力を背景に、ヘンリー・クリントンがフィラデルフィアを明け渡しニューヨークの補強に向かった。ワシントンは撤退するイギリス軍を阻止せんとしてモンマスの戦いを起こしたが、これが北部では最後の会戦となった。この戦いは勝敗が付かず、イギリス軍はうまくニューヨーク市まで撤退できた。北部の戦線は手詰まり状態となり、戦略的な焦点は南部に移った[27]。 ヨークタウンでのコーンウォリス将軍の降伏。実質的な終戦の切っ掛けとなった。1778年12月遅く、イギリスはジョージアのサバンナを占領し、北のサウスカロライナへ侵攻を開始した。ジョージアの北部はウィルクス軍におけるケトル・クリークの戦いで愛国者軍が勝利し、この期間も占領を免れた。イギリス軍はサウスカロライナのチャールストン占領に動き内陸部での砦のネットワークを作り上げた。この時点でイギリス軍は王党派の者達が英国旗の下に集まってくることを期待していた。しかし、十分な数の王党派が集まらないままに、イギリス軍はノースカロライナそしてバージニアへと進軍した。バージニアではイギリス艦隊と落ち合って救援されるものと考えていた。その期待していたイギリス艦隊はフランス艦隊に敗れた。ヨークタウンで身動きが取れなくなったイギリス軍は、アメリカ・フランス軍に包囲され、チャールズ・コーンウォリス将軍以下の全軍が1781年10月にワシントン軍に降伏した。イギリス王ジョージ3世は戦いの継続を望んだが、その支持者が議会での勢力を失い、戦争は実質的に終わった[28]。1783年3月10日、ケープカナベラル沖で大陸海軍のジョン・バリー船長の指揮する連合船隊が、大陸軍の給与を奪おうとしたHMSシビル以下3隻のイギリス艦船と戦ったのが最後の海戦であった。 1775年8月、イギリス王はアメリカの革命勢力をイギリスに対する反逆者であると宣言した。イギリス政府は当初アメリカ軍捕虜を普通の犯罪者として扱うことから始めた。捕虜は監獄に入れられ、反逆罪で裁く準備が進められた。ジャーメイン卿とサンドウィッチ卿は特に熱心にこれを進めた。バンカーヒルの戦いで捕虜となった多くの者が疑いも無く絞首刑になるものと思われた。しかしイギリス政府は次段階、つまり反逆罪の裁判と刑の執行に進むことを躊躇った。アメリカには何万人にも及ぶ王党派がいて、アメリカの地で反逆罪で裁かれる危険性があった。イギリスはこれら王党派を使って戦いを展開する戦略を立てていた。1777年のサラトガでの降伏で、何千ものイギリス兵がアメリカ軍の捕虜となり人質という形になった。このためにアメリカ人捕虜は反逆罪で裁かれることはなくなり、監獄船という問題は残ったものの交戦国の戦闘員の権利に従って扱われることになった。1782年イギリス議会の立法により、反逆者ではなく戦争捕虜と公式に認められた。戦後、両軍は捕虜を解放した[29]。 パリ条約と呼ばれるイギリスとの和平条約で、アメリカはミシシッピー川から東、五大湖の南の領土を獲得した。ただし、フロリダは含まれなかった。1783年9月3日、イギリスはスペインと別の条約を結び、フロリダをスペインに返還した。割譲された地域に住む先住民族は条約交渉の席におらず、アメリカに軍事的な敗北を喫するまで条約のことを認識していなかった。境界と負債の問題は1795年のジェイ条約まで解決されなかった[30]。 アメリカ合衆国住人の5%すなわちFX にとって、敗北は追放が伴うものであった。おそらくは10万人、最大でも25万人の王党派が新しくできた共和国を離れ、ケベック(イースタン・タウンシップに集中した)、プリンスエドワードアイランド、ノバスコシアなどの北アメリカに残されたイギリス植民地に移住した。アッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)やニューブランズウィックの新しい植民地が移住者のために創られた[31]。 アメリカの独立は世襲の階級や地位が無い状態で始まった。ただし、そのようなものを作ろうという意図でシンシナティ協会が結成されて動いたが不首尾に終わった。独立獲得後、連邦党の反対があったにも拘わらず、マシュー・ライアンが主張したような真の民主的政治が実現可能となった[32]。人民の権利が各邦の憲法に取り入れられた。かくして、アメリカの共和制の中核的価値観となる自由、個人の諸権利、平等および政治腐敗に対する敵意を広く保証することになった。ヨーロッパの古い秩序に正面から挑戦するということは、世襲制の政治権力に対する挑戦であり、統治は統治される者の同意の上に立っているという考えに挑戦するものであった。ヨーロッパの植民地帝国に対する革命が初めて成功したことは、他の多くの植民地人の模範となり、自分達も事態を打開して自治政府を打ち樹てることができると思わせるようになった[33]。 1777年、モロッコはアメリカ合衆国のイギリスからの独立を最初に認めた国となった。この2カ国は10年後にモロッコ=アメリカ友好条約を結んだ。1782年2月26日、ネーデルラント連邦共和国の7州の一つ、フリースラント州がアメリカの独立を認めた2番目の政体になった。この後の4月19日にはネーデルラント連邦共和国の議会が承認した。ジョン・アダムズは駐ハーグの初代アメリカ大使となった[34]。 アメリカの独立は「大西洋革命」の最初の波となり、フランス革命、ハイチ革命およびラテンアメリカの解放戦争へと続いた。余波は1798年のアイルランド蜂起、ポーランド・リトアニア連合やオランダの内乱にも及んだ[35]。 アメリカの独立は特にイギリス、アイルランド、オランダおよびフランスに直接の強い衝撃をもたらした。イギリスやアイルランドのホィッグ党員はアメリカを支援する発言を繰り返した。多くのヨーロッパ諸国にとって古い体制を崩壊させる教訓になり(16世紀末のオランダの反乱や100年前のイギリス清教徒革命は別として)、フランス革命のときのラファイエットなどの活動に表された。アメリカ独立宣言はフランスの人間と市民の権利の宣言に影響を与えた[36][37]。 アメリカの独立の影響はラテンアメリカで特に外国為替 であった。アメリカ合衆国を自由を打ち樹て決定的な反映を享受した植民地のモデルとして、各植民地が独立への闘争を始めた。ラテンアメリカの歴史家達はアメリカ合衆国をモデルとする多くの結びつきを指摘している[38]。 アメリカ合衆国ではイギリスがその植民地全てで奴隷制を禁じた後も長く奴隷制を保持し続け、1865年まで続いた。アメリカの先住民族も悲惨な経過を辿った。イギリスの支配下では保護されていたものが、アメリカの下に入って以前の条約は反故にされ、その権利は侵害され、最後は土地を取り上げられた。 アメリカ独立の影響についてのFX は様々である。この多様さの中でも究極のものは、アメリカ独立は結局「革命」ではなくて、急速に植民地社会が変革されたわけではなく、遠くにあった政府が近くのものに置き換えられただけだという古い見解である[39]。歴史家のバーナード・ベイリン、ゴードン・ウッドおよびエドムンド・モーガンなどによって提案された最近の見解は、人民の自然の権利や人民によって選ばれた法体系というような共和制の原則に対する信奉が深まるにつれ、世界の情勢に深い変化と十分な影響を与えた、特徴有るまた急進的な出来事であったとしている[40]。 アメリカ独立後に国家が負った負債には3種類有る。最初のものは外国、特にフランスから借りた1,100万ドルであった。2番目と3番目はそれぞれ約2,400万ドルであり、戦争中の軍隊に食料、馬などの物資を売ったアメリカ人に対して国家および各邦政府が負っているものであった。大陸会議は新しい連邦政府が外国からの負債を償還することに同意した。その他に、戦争中、兵士、商人および農夫に対して、新しい憲法が政府を作って負債を払うということを認めさせて、発行した「約束手形」による負債もあった。各邦の戦費は総計で1億1,400万ドルに上り、連邦政府の戦費は3,700万ドルであった[41]。1790年、合衆国議会は各邦の負債を海外、国内に拘わらず合算して8,000万ドルを国家の負債とした。あらゆる者が戦時債権を額面通り受け取り、国の威信が保たれ信用が確立された。